人生において生きていく意味、大義名分は必要なのか。
見終えた後、そんな問いを投げ掛けられているような気がした。
愛ってなんだろう。
人生において生きていく理由なんて要らない何て言える人は幸せだと思う。
私はなんで生きてるんだろう。なんのためにこんな努力しているんだろう。
そんな風に思って生きてきたから早く埋めてくれる愛を探していたようにも思える。
そうして愛する人と結婚し、子供にも恵まれた。
なのに、愛する人たちなのにわかり合えるようでわかり合えないことが多すぎる。
そんな毎日に寂しさ孤独を感じたりすることも多い。
結婚が不満だとかそういう話ではなく、人と人は孤独を埋めるとかそういうことを求めては行けないのかもしれないと最近思う。
ああ、どうして生きてるのかなんて誰か教えてくれたらいいのに。
束縛を嫌い、プランクトンのように漂うように生きてきたへジョ。
彼は漂うようににしか生きていけなかったも言える。
彼は人生が終わると知った途端、彼女や父親に会いに行った。
永遠に続いていると思っていた頃はただ流れるがまま生きてきたのに。
最後のほんのわずかの時間に彼の人生にはたくさんの愛が溢れていたと知っていく。
糞だと思っていた人生が終わりのシーンで輝き出し、もっと生きたい、もっと彼女の笑った顔がみたい。そうやって死んでいくシーンに陳腐だけれど涙が止まらなかった。
彼の死が悲しかったのではない。
人生でもう終わりだと思えないとこんなにも全力で誰かを愛せないのか。
エンディングで幸せだったなんで気づきたくないとも。
今だに立ち止まることはあるけれど、時々思い出す。
全力はしんどいけれど、終わると思えば少し寂しい人生を目指す。
それが私の大義名分だ。
おおげさな子育ても家族も仕事も要らない。
今日ものり巻きがおいしかったとか、息子のおならが臭くて笑えたとかそんなことをここに書いて忘れないように生きていければ、忘れない。
そこそこいけてる人生だって。
息子がなんで生きてるのかわからないといったとききっと私はこう答える。
あなたがただ生きてれば元気なだけで私は幸せである。
そんな存在なんだと。
そう思えるのが本気だから、私も誰かにとってきっとそう。
プランクトンのようにどうでもいい存在に見えて、この世の酸素をほとんどを担っている彼らのように私も息子も誰かにとっては間接的であれなんであれ必要な存在だってこと。
いつか一緒にみたいな。人生そこそこそれが難しいんだけど。
完璧に生きなくったってそこそこ幸せって今日も気づけますように。
